頁を繰る ~春秋暑寒~
 学生の頃、お城の堀川沿いに、レンガ造りの『ポトス』という古びた喫茶店があった。
そこは、ぼくたち勉強しない不良学生どものたむろする場所になっていた。
老夫婦がやっていて、じいさんのマスターのドリップする珈琲がめっちゃ美味かった。
二階には古い黒いグランドピアノが置かれていて、時々ジャズの生演奏がある。
ぼくのいつもの指定席から見える正面の壁には藤山寛美さん直筆の額が掛けられていた。
 そこのママさんはいつも床を掃くような黒いロングスカートに厚化粧、緋より赤い口紅。
薄暗い店の中で見る彼女は年齢不明で、絵本の『白雪姫』に登場する魔法使いのお婆さんそのものであった。



 彼女はぼくに言ったことがある。
「いっかいの人生でも、男は自分の武勇伝を語れなあかんで」
「一回の…」と言いたいのか、「一介の…」と言いたいのか訊かなかった。
でもその意味深な言葉は、学校で学ぶさまざまな勉強より刺激的で、人生におぼろげな夢を抱かせてくれた。
 貧乏学生で珈琲代はしょっちゅうツケをしていたけれど、イヤな顔をされたことがない。
アルバイトのお金が入った時など、たまにツケを払うと、
「学生は貧乏がええ。お金を持ってる学生は碌でもない」と、
一本しかない前歯の笑顔で、魔法使いのお婆さんのように言ってくれた。



 ずいぶん大人になってから一度訪ねてみたが、もうそこにポトスはなくなっていた。
「いっかいの人生でも、男は自分の武勇伝を語れなあかん」
意味はおぼろげであっても、今でも聴こえるように憶えている。

登り坂 降り坂あり 富士の山 (藤山寛美)



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