台本:寿々木米若(浪曲師)
潤色:六魯
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昔むかしのお話です。
佐渡ヶ島に住む漁師の娘が、たまたま越後に渡った時、柏崎で一人の男と知り合いました。
娘の名をお弁。男を藤吉といいます。
島へ戻っても 彼女は一日として藤吉のことを忘れることが出来ません。
「どうせ身分の違う方と一緒になることなど、出来やしない」と自分に言い聞かせてみても、
日に日に男に逢いたい気持ちはつのるばかり。
でも海の上を歩いて行くわけにはゆきません。
それに許可なく島を出るのは禁じられています。
彼女は内緒で越後に行ってくれそうな舟をあたってみました。
でもそんな御法度な頼みを聞き入れてくれる漁師など一人もいません。
「あの人に一目でも逢えたのなら、もう死んでもかまわない」とまで思いつめてしまいました。
◇
ある晩のこと、お弁はたらいに乗って沖に出ました。
はるかはるか向こうの柏崎番神岬の常夜灯がぽつんと見える・・・。
彼女は両手で水をかきながら常夜灯を目指してたらいを漕ぎ始めたのです。
夜明け前に やっと越後柏崎の浜にたどり着き、藤吉の家に走って行きました。
激しく戸を叩く音に、何事かと藤吉が外に出てみると、ずぶ濡れのお弁が立っています。
彼女は いきなり藤吉の胸にとび込み顔をうずめました。
「会いたかった」それしか言葉になりません。ただ涙がぽろぽろとこぼれるばかりです。
「おまえは お弁。よく来てくれた」藤吉は彼女を抱きしめました。
思ってもいない娘が突如 目の前に、そして腕の中に・・・、驚きよりも愛しさです。
でも、こんな時でも男は欲情するものでしょうか。
それを抑えながら抱きしめていると、どこかで一番どりが鳴きました。
お弁は はっとして顔を上げます。その時にはもう東の空が白くなり始めていました。
「帰らなくては・・・ 」
「だって 今 来たばかりじゃないか」藤吉は彼女を離そうとしません。
「明日また来る。今度はもっと早く来る」お弁は男の手をふりほどき、浜辺へと急ぎました。
浜辺には たらいが一つあります。
「まさかお前、このたらいで?!」藤吉は驚いて訊ねました。
彼女はこっくりと頷き たらいに乗ります。
「明日 待っているぞ。 きっとだぞ」
遠ざかっていくお弁に向かって、藤吉は手を振って見送りました。
◇
お弁は次の日、夜の明けないうちに、たらいでやって来ました。
二人はせきをきったように激しく愛し合います。
ひと時の、だがお互いの求めに応じた逢瀬にお弁は満足して、晴れやかな笑顔で島へもどって行ったのです。
それからというもの彼女は毎夜欠かさず、藤吉のもとへ通い続けました。
彼女は幸せでした。
死んでもよいと思う覚悟が彼女を幸せにしているようです。
男に逢えると思えば、四十九里の波などなんでもありません。
ところが 最初のうちは 彼女の気持ちをうれしく思っていた藤吉も、毎夜毎夜やってくる女が、しだいに煩わしくなってきました。
「毎日というのも大変だ 。たまには休んだらどうか」
それとなく言っても彼女は承知せず「たとえ海で溺れて死んでもかまわない。こうしてあなたと逢えるのだから」と微笑むだけです。
好きな男に抱かれた女は、日々抜けるように美しくなってゆきます。
でもお弁の手は波に洗われて痛々しいほど白くふやけ、顔は青ざめ髪は乱れて、血走った眼だけが輝いています。
それはもう鬼のようです。
そのうち藤吉は浜に出迎えるのも面倒になってきました。するとお弁は家まで追いかけてゆく。
「なんとしつこい女だろう」彼はいよいよお弁がうとましくなってきました。
だが彼女は天にものぼる想いで、今では藤吉に逢うためだけに生きているようなものでした。
「いったいどうすればいい・・・」藤吉は頭を抱えてしまいました。
ふいに[女]へわけのわからない鬱陶しさがわいてきたのです。
「そうだ!いいことがある」藤吉は彼女がいつも常夜灯を目指してやってくることを思い出したのです。
ある晩のこと、藤吉はお弁がこれから沖に出るだろう頃を見はからって、岬の常夜灯の灯を消したのです。
しかしその頃すでにお弁は沖に出ていて、夢中でたらいを漕いでいました。
彼女は、はっとして手をとめたのです。
「どうしたのかしら」しばらく常夜灯の点いていた方を見ていましたが、再び灯が点く様子がありません。
目指す灯りがなくては どこへ行けばいいのか、わからなくなってしまう・・・。
◇
真っ暗な海の中で聞こえてくるのは波音だけ。
運悪く その夜は星ひとつ出ていませんでした。
お弁は必死にたらいを漕ぎました。
だが 行けども行けども波ばかり。
そのうちに風が出てきて たらいが激しく揺れ始めました。
波はいよいよ高くなっていきます。
気がつくと、たらいには半分も水が溜まっています。
かい出そうにも 手を離すことが出来ません。
手を離せば たちまち海へ 転げ落ちてしまいます。
「だれか~~!! 」お弁はたまらず大声を上げました。
しかし、その瞬間 大きく盛り上がった波が彼女もろともたらいを飲み込んでしまいました。
次の朝、海は夕べの風が、うそのように 凪いでいました。
波を紅く染めて 陽が昇り始めます。
「久し振りに ゆっくり休めた。しつこい女だったなぁ・・・。常夜灯さえ消しておけば、これからはやって来ることはあるまい」藤吉は ほっとして海辺にやって来ました。
すると波打ち際に 誰か女の人が倒れていました。
長い髪が波に洗われ ゆらゆらと動いています。
藤吉は はっとして女のそばへ駈け寄りました。
「あっ!!」なんと それは変わり果てたお弁の姿です。
美しい顔がうらめしそうに、歯をくいしばっていました。
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この物語は民話を浪曲の台本として、寿々木米若が書いて有名になったものです。
事実あったことが伝承過程で、少しずつ物語化してゆくのが民話の特徴です。
この話の発祥は江戸時代から遅くても明治初期のものではないかと思われます。
季節のほどは定かではありませんが、北緯38度の日本海のことですから、真冬というのはちょっと考えにくいです。
そして民話には、たぶんに教訓がふくまれています。
では、このお弁の恋に死ねる情念はわれわれに何を語ろうとしているのでしょうか。
まさか四十九里も先の常夜灯の灯が見えるとも思えないし、たらいに乗って日本海の荒海を一夜にして越後に漕ぎ着くというのは非現実的です。
では常夜灯もたらいも何かの比喩なんでしょうか。
もし比喩であれば、いったい何の比喩なんでしょうね。
コメント
藤吉もかってですよね。
想われすぎて 逃げたくなってしまったのかな
お弁のように 人を愛したことあっただろうか
うんうん、ぼくにも何の比喩か分りません。
でも、もし常夜燈の灯りが藤吉の気持ち、波に翻弄する たらいがお弁の気持ちの比喩であるなら、この民話の教訓は何となく伝わってきます。
人と人との係わり合いは常に50:50ではなく、こちらの想いが70になれば相手は30、こちらが90になれば相手の想いは10になっているってことを肝に銘じなさい。と・・・この民話は教えているんではないかと思います。
「お弁のように 人を愛したことあっただろうか」と、もうひとつ、
「藤吉のように 人の想いを見限る気持ちを持ったことはなかっただろうか」です。
ぼくは6月8日に重松 清さん著『カシオペアの丘で』を転載しました。
「ひとを一度も傷つけることなく、誰かに一度も悲しい思いをさせることのない人生は、
この世にあるのだろうか。わたしにはわからない。
誰からも傷つけられたことがなく、悲しい思いを一度もしたこともない人生は・・・
よかったね、とは思うけれど、幸せだったね、と言えるのかどうか、わからない」
人の内面には相反する二つの人格を併せ持っています。
悲しい想いをしたことも、傷つけたこともある・・・それが愛であり恋であると思います。